初めてのラジオ出演!
平成31年2月20日、FM高松のラジオに出演しました。
高松市称讃寺住職・瑞田信弘氏が司会を務める「瑞田和尚のちょっとここらでほっと一息つきましょう」。
一心寺住職としての活動、真宗興正派西讃教区教務所長として詳しい県内の寺院事情を踏まえて、お寺の今とこれからについて話してほしいとのことでした。
四国霊場第七十六番の金倉寺・村上哲済氏、高松市大乗寺住職・中原大道氏とご一緒させていただきました。
自己紹介と宗派の説明が終わって本題へ。
お寺・お坊さんの現状について
(瑞田)今日は4人のお坊さんで最近のお寺事情について話をしたいと思います。まず、一般の方々は、お寺って何をしているのだろう、と思っているのではないでしょうか。
(私)確かにそうかもしれません。お寺にお参りすることが減っている、お寺との接点がなくなっているのでお寺のことが分からなくなっているのでしょう。
(瑞田)葬儀が葬儀社主導になり、お坊さんはお経を読むだけの人、お勤めが終わったら帰ってくださいということになっていないでしょうか。
(中原)昔に比べて喪家、門信徒の方とお話する機会が減っています。お膳の席に着くことなく帰るという方も多いようです。忙しいということもあるでしょうが、その方が良いと思っている方もおられるようです。
(私)観音寺のお寺さんはお膳の席に着く方が多いです。私はお膳に着かせていただくということを葬儀社にも伝えてあります。そこが門信徒の方との接点のスタートで、それがあるから、後にも色々な話が出来るのではないかと思います。
(瑞田)葬儀、法事は昔と変わってきましたか。
(私)昔は5人10人で勤めていたものが今は2人3人。お坊さんの出番が減っています。
(瑞田)お葬式、法事など宗教儀式で成り立って来た寺院は厳しくなりますね。
(私)お寺には大きく分けて観光寺院、祈祷寺院、檀家寺院があります。一般的な檀家寺院の運営は厳しくなっています。昔の家での葬儀はお坊さんで座敷が一杯でした。親戚はお花ではなく、お坊さんを呼んでお経をお供えしました。現在は、導師を務めることが多いお坊さん以外は法要数が急激に減少しています
(瑞田)今は、会館葬で場所はあるのにお坊さんを呼ばない。必要としていないのでしょうか。
(中原)その当時は忙しくてこなすだけでした。今思えば形だけになっていたのかもしれません。今は葬儀に出る機会は減ったけれども、一生懸命、心を込めて勤めることができるようになったと思います。
(瑞田)当時は忙しさにかまけて十分なことができていなかったというのも葬儀のお坊さんの数が減った一因かもしれないということですね。法事は25回忌、33回忌など併修が増えています。お坊さんの環境はずいぶん厳しいですね。香川県も全国的にも同じでしょうか。
(私)檀家で成り立っている寺院で言うと、地域の違いというよりも、大規模寺院と小規模寺院で二極化していると思います。真宗興正派は、戦後、庵(説教所)を寺院化したために小さな寺院がたくさんできました。その寺院が今、大変な状況になっています。
寺院だけで生活が成り立つには、地域性、宗派の違いはありますが、数百軒の檀家が必要です。西讃教区では半数以上がそれに遠く及びません。生活を成り立たせるために兼職する。または、退職してから住職になる。個人収入を寺院を護る費用に充てているところもあります。その内の半数が後継者不在、次の代にはお寺の存続は難しいと考えているのが現状です。
以前はそのようなお寺も必要とされていました。地域密着で、大きな寺院が忙しくてお参りできない部分を補う存在でした。そういうお寺ほどお参りが多かったのです。
全体的な法要数の減少は、人口減少、宗教離れという時代の流れもあるでしょうが、お寺側の力不足、怠慢があったことは認めなければなりません。明治、大正、昭和とお寺を取り巻く状況はかなり厳しいものでした。高度成長期になって経済的に豊かになり、人に寄り添うことを置いてきぼりにした部分もあったのだと思います。
(瑞田)今でも威張っているお坊さんが多いと感じるのですが。
(中原)威張っている人とは近づきたくない、そのような住職なら葬儀と法事だけで良いとなるのではないでしょうか。何でも気軽に聞けるような姿勢が大切だと思います。
(私)聞信徒との信頼関係がなくなってきているのでしょう。それを築けるかどうかが問題です。私自身、学生時代まではお坊さんに良い印象はありませんでした。しかし、住職になって近隣のお坊さんと交流するようになって分かりましたが、ほとんどの方は真面目で良い方です。有難い環境だと思っています。
お寺の役割とは
(瑞田)過去と現在ではお寺の役割は変わりましたか。以前は地域コミュニティーの中心として、困り事があったらお寺を訪れました。今はどうでしょう。
(私)残念ながら役割が減っていると感じます。未来の住職塾・松本紹圭氏は「お寺は先祖と仏教の二階建て」と言われます。それどころか、昔のお寺は、いわば何階建てものデパートだったのでしょう。
まず、江戸時代には役所でした。これには良し悪しがあると思いますが、当時多くの人々が集う場所といえばお寺だったのでしょう。また、学びの場でもありました。寺子屋、各種の習い事の会場。一心寺の本堂は明治三十年代初頭、観音寺第一高等学校の前身である丸亀中学校三豊分校設立時の校舎でした。また、文化芸能の場でもありました。落語はお説教から生まれましたし、能舞台があるお寺も数多くあります。親鸞聖人の時代のお勤めである礼讃や和讃は、今でいう流行歌と言ってもよいと思います。そして、遊び場。子どもたちが自由に走り回っていました。それを誰彼となく大人が見守っていました。このような昔のお寺の姿に憧れます。
(瑞田)浄土真宗は、お聴聞が大事ということを強調し過ぎて、お念仏している人だけに話を聞いていただくという形になっていないでしょうか。一般に向けてという発想がないのではないでしょうか。
(中原) 確かにその傾向はありますね。私は最初からそういう風に考えておらず、一般の方に向けてやっていました。勉強不足のせいか、それが普通だと思っていました。
(私)最初右も左もわからずにお勤めしていました。しかし、住職になって10年ほどして、お寺は誰にでも開かれていないといけない、みんなのための場所でなければならないと考えるようになりました。行事によっては門信徒よりもその他の方、近隣の方が多いということもあります。
(瑞田)お寺である以上、基本的に、みなさんどうぞという姿勢が必要でしょう。
(村上)お寺の行なうことには、広く浅くか、狭く深くか、という二通りあります。金倉寺にとっては安産祈願が入り口。それから子供が生まれてつながっていき、深い付き合いが始まります。お寺の縁起に注目すると様々な可能性があると思うし、やりがいが出て来ると思います。
(中原)「おじゅっさんとゆるーく話す会」(私も参加している)を開催しています。お茶を飲みながらお坊さんと様々な話をする会です。一回の参加者は少ないのですが、また開催してほしいという声をいただいています。また、地域のマルシェのようなイベントにお坊さんと触れ合おうというブースを出したこともあります。また、坊守(妻)と一緒に「仏教エンターテイメントショー」を開催しています。仏教儀式について、他宗のものは私たちでもわからない。一般の人は、あれは何だろうと不思議に思うことが多いだろう。そこで、仏具や袈裟を見てもらう、実際に触れてもらう。また唄を歌うなどエンタメ性を持たせたイベントにして人々に関心を持ってもらい、一般の人に広くお寺に触れていただきたいと思っています。
(私) みなさんどうぞと思っていてもどうすればよいか、なかなか分からないのだと思います。入り口は、当然ながらお寺によって違います。立地、町の雰囲気、檀家の範囲、住職の個性。一心寺は旧町内、徒歩や自転車で人々が行き交う場所にあります。縁あって、瀬戸内国際芸術祭の公式プログラムにもなった「よるしるべ」という夜のまち歩きに協力することになりました。その中で「よるしらべ」という声明雅楽コンサートを開催することで、多くの方にお寺を知っていただく、本堂に参拝していただくきっかけになりました。
また、近頃のお城ブーム、「西讃の山城」という本も好評らしく、一心寺の山門は旧観音寺城門が移築されたものであることが広く知られました。このように様々な形でご縁を広げることができるのではないかと思います。
★初めて「よるしるべ」への協力依頼を受けた時、ディレクター、アーティスト全員と本堂で話をしました。その時に、お寺作りと街作りは同じだと感じました。人がいないと成り立たない。必要とされないと消えていく。喜びや感動を共有する場となることが重要だと思いました。時々「若い院主さんの代になって色々新しい取り組みが増えましたね」と言われます。しかし、新しいことをしようとしているわけではありません。昔のお寺の良い雰囲気を取り戻したいと思っています。
まずはお寺を知っていただく。次は、話をしてお互いの理解を深める。それで信頼が築けたなら、いよいよ仏法の出番。人が集まるところに喜怒哀楽、悩み苦しみが共有される。そこに教えが生きてきたのだと思います。生まれる、生きる、死ぬということをどのように受け止めるのかを聞き開くのが仏法の本質。お寺の中心役割、他ではできない、なくてはならないものです。その他、お寺でもできるものも必要に応じて取り組む。
楽しみを与える、苦しみを和らげる、両方大切です。しかし、後者は大変難しいことです。まずは、お寺は誰が訪ねていっても話ができる、そういう場所になればと思っています。
お寺への期待は?
(瑞田)人々はお寺に何を求めているのでしょうか、法事と葬式だけしてくれればよいと考えているのでしょうか。それ以上のことは期待していないのでしょうか。
(私)そうなりつつあるでしょう。本当はお坊さんにもっと期待してほしいと思います。現在は、何を期待すればよいかわからない、何かあったとしてもそれはお坊さんに期待すべきものではない、という感じでしょうか。
(瑞田)葬儀と法事だけとなると、ペッパー君と同じでしょう(先日イベントでペッパー君の読経が公開された)。ペッパー君は前しか見ていない。人を見ていない。法事と葬式だけしてくれればよいならば、ペッパー君が取って代わっても問題ないでしょう。
(香川)西讃教区で「正信偈」の動画配信を始めました。お坊さんを呼ばなくても、パソコンから流れるお経で事足りるとなれば大変だと反対される方もいます。しかし、それ以上に、現在は何か調べる時にはまずインターネット。ネットを通しても仏教に、浄土真宗に、お寺に親しんでほしい。49日までの七日参りにお坊さんを呼ばなくなってきた今、「正信偈」がネット上にあることで一緒にお勤めするきっかけになればという思いでアップしました。
(中原)どんな音楽でも、CDを買っても、ライブに行きたいと思わせるものが本物。CDでは伝わらない、ライブで感動を伝えられる力がお坊さんにも求められていると思います。
(村上)お寺に来てもらうから場の雰囲気が作れる。宗教体験を感じてもらいやすい。場を作る、それはCDやネットではできないと思います。
(香川)最近の若いお坊さんは声明を熱心に練習しています。そのことを肌で感じているのではないでしょうか。
(瑞田)とにかくお寺の活動も工夫はしないとダメでしょう。
(中原)お店に喩えると、店主がダメだ思っているお店には行きたくない。うちはいいもの出してます、お客さんにも満足してもらえるはず、という店なら行きたい。とにかく住職が元気にやらないと。
(香川)苦手なことは置いておいて、何か得意なことからやってみる姿勢が大事だと思います。
(中原)イベント開催は精神力、体力が必要です。
(香川)ただ一人では難しいことが多い。個人が、決まった時間に決まった場所で行わなければならない活動は住職には厳しい。グループで考えを共有して、誰かが対応できる状態ができれば、可能性が広がるのではないかと思います。
私ができなくても誰かがやってくれるなら安心。若い方でも、年配の方でも、誰でも信頼できるつながりがあれば安心して生きていけます。それを助ける存在としてお寺が機能すれば良いなと思っています。
目指すお寺・お坊さんとは
(瑞田)最後に言いたいことはありますか。目指すお寺、お坊さん像は。
(中原)その人に会ったら元気になるというお坊さん。ほっとするお坊さんですね。
(香川)みなさんに「院主さんに任せていたら安心やな」とおっしゃっていただいて、「はい、大丈夫ですよ」と応えられるようになれれば嬉しい。安心を与えられるような存在になれればと思います。
(瑞田)心の安定をもたらして上げれるようなお寺に、住職にですね。
★今回のラジオ出演でお寺の役割を改めて考えさせられました。未熟な身で大層なことを話してしまいましたが、少しでも良いお寺になるよう努めていきたいと思います。今後ともご指導ご協力をお願いいたします。 (※放送内容をまとめ、さらに加筆しました)
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