オリンピックについて考えてみよう

開催か中止か

 新型コロナ感染症も日本での感染確認からはや一年。昨夏開催される予定が一年延期された東京オリンピック、もう開催か中止か決定しなければならない時期を迎えています。

 新型コロナ対策は十分できるのか、開催の是非、観客動員の可否などについて盛んに論議されています。

 その中での組織委員会長であった森元総理の女性蔑視発言。聖火リレーの辞退者も続出するなど、開催に向けて機運が盛り上がるどころか、開催の意義が問われている状況です。ある調査では、国民の8割ほどが開催に否定的ともいわれています。橋本新委員長はじめ、小池都知事、菅総理大臣も難しい判断を迫られています。

 そもそもオリンピックとは何でしょうか?この機会に【オリンピック憲章】を見てみました。

【オリンピック憲章】には何が書いてある?

 憲章の最初に掲げられている〈オリンピズムの根本原則〉にこうあります。

オリンピズムの目的は、 人間の尊厳の保持に重きを置く平和な社会の推進を目指すために、人類の調和のとれた発展にスポーツを役立てることである。

オリンピック開催は目的ではない!?

 つまり、スポーツは目的ではなく手段なのです。単に4年に1度のスポーツの祭典ではなく、その開催によって目指すところは、人間の尊厳を守り、平和な社会を実現することなのです。スポーツには人間の体・心・頭のすべてを高める力がある。だから、スポーツは単なる遊びではなく、文化や教育と同じように、優れた人間を育てることに役立つ。スポーツを通して、体と心を鍛えて、世界の色々国の人と交流する、そして平和な社会を築いていこうという願いがあるのです。

差別は認めない…平等?

このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、 国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。

ともあります。森氏の女性蔑視発言はもとより、オリンピズムは、あらゆる差別を認めないと高らかに謳っています。

 そういえば、オリンピックは良い記録を持っている選手、強い選手だけではなく、広く参加資格が与えられているようです。2000年のシドニー・オリンピックの100メートル自由形予選で、赤道ギニアのムサンバニ選手はおぼれかけながらも、必死になって泳ぎ切り、一躍世界中の人気者となりました。赤道ギニアには50メートルのプールはなく、十分な練習環境がありませんでした。また、アメリカなどでは長らく、黒人は白人が使用するプールには入れなかったと聞きます。

 とても参加基準に満たないと思うような選手でしたが、国や人種、社会的な理由で差別されないというオリンピズムに則った出場だったのでしょう。まさに「参加することに意義がある」です。ただ、他国の記録が良い選手が出場できないということにもなり、平等とは何かという難しい問題を孕んでいることも事実です。

オリンピック・シンボルの意味

 1914年に制定された五つの輪が重なったオリンピック・シンボル。アジア、ヨーロッパ、アフリカ、南北アメリカ、オセアニアの五大陸が団結し、世界中の国々から選手が集まって技を競いあい、友好を深める大会だということを端的にあらわしています。

 青、黄、黒、緑、赤の五色に、旗の地の白を加えた六色があれば、世界の国々の国旗がほとんど描けることから、世界の団結を表すためにこの色を選んだそうです。

国家間の競争ではない!?

 ただ、オリンピックは、個人種目または団体種目での選手間の競争であり、国家間の競争ではないと定められているそうです。勝利の栄誉は、あくまでも選手たちのもので、国別のメダルランキング表の作成を禁じているというから驚きです。私たちはついつい、日本のメダルは〇個。他国と比べて日本は…と考えてしまいますが、それはオリンピズムに反していることだったのです。

聖火リレーの意味を知る

 さて、先日、偶然テレビ番組で聖火リレーの意味を知りました。

 古代オリンピックは紀元前七七六年に古代ギリシアのオリンピアで、ゼウス神に捧げる競技祭として始まったとされています。古代ギリシアではポリス(都市国家)間で争いが絶えませんでした。そんな中、祭典のために「エケケイリア(聖なる休戦)」と呼ばれる休戦期間を設けました。聖火は、武器を捨てて聖地に集えという知らせを各地に届けるためのものだったそうです。紀元後三九三年、ローマ時代、キリスト教が国教と定められたため、ゼウス神に捧げる競技祭であっ古代オリンピックは終焉を迎えました。

 近代オリンピックは、フランス人・クーベルタンの提唱によって一八九六年に始まりました。当時のヨーロッパはとても暗く不安定な時代。戦争、皇帝の暗殺、植民地支配、そのような状況下で、オリンピック憲章にあるように、人間の尊厳を守り、平和な社会を実現することを願って開催されたのです。

 古代オリンピックはギリシア人のためのものでしたが、ひと時の平和に寄与しました。近代オリンピックは、平和な社会を実現するために、世界中にオリンピズムの理念を広めることを目指して始まったのです。

今回のオリンピック開催を考える

 さて、今年の東京オリンピック開催をどのように考えればよいでしょうか。オリンピックに関係の深いお二人の言葉を紹介します。

 まずは、金メダリスト、体操の内村航平選手。

「livedoor blog」より

国民の皆さんが五輪はできないんじゃないかという気持ちが80%を超えている、というのは、少し残念に思っています。『できない』じゃなくて『どうやったらできるか』をみんなで考えて、どうにかできるように、そういう方向に考えを変えてほしいと思います。非常に大変なことであるというのは承知の上で言っていますが、国民の皆さんとアスリートが、同じ気持ちでないと、大会はできないのかなと思う。どうにかできる、なんとかできる(という)やり方は必ずあると思うので、どうか『できない』と思わないでほしいと思います。

批判覚悟で全選手の思いを代表する気持ちで発した言葉には胸を撃たれます。

もしこの状況で五輪がなくなってしまったら、大げさに言ったら死ぬかもしれない。それくらい喪失感が大きい。それだけ命かけてこの舞台に出るために僕だけじゃなく東京オリンピックを目指すアスリートはやってきている。

 現実に、選手はオリンピックに出場した、メダルを取ったという実績があるかないかで、その後の人生に天地の差が生まれることは想像に難くありません。

 しかし、オリンピックを目指す選手も新型コロナに翻弄されているでしょうが、私たちもみな同じように被害を受けているわけです。感染した方はもちろん、医療・介護関係者、その他、誰であっても大なり小なり影響を受けています。国民全体への影響を考えて判断しなければならず、選手には酷な結果になるかもしれません。

 もう一人、沖縄県浦添市の宮城勇さん。一九六四年の東京五輪聖火リレーの第一走者で、今年も聖火ランナーを務めます。

「琉球新報DIGITAL」より

 沖縄は太平洋戦争末期、国内最大の地上戦で、住民約九万四千人を含む日米約二十万人が犠牲になりました。敗戦から十九年。五輪、平和の象徴である聖火リレーを迎えて、沖縄の人々は高揚しました。当時の沖縄は米占領下でした。車は右側通行、買い物にはドルが使われ、隣県の鹿児島へ行くにもパスポートが必要でした。米軍は決められた日以外の日の丸の掲揚を禁じていましたが、リレー期間中は黙認されました。宮城さんは語ります。

平和の象徴として、命の叫びとして、未来を照らす道標として聖火を迎えたのではないかと思います。

 激戦地となった沖縄本島南部の沿道には、遺影を抱きしめた人がランナーに手を合わせた方もおられたとのことです。

 前回大会は戦後からの復興の途中、多くの国民が明るい未来を夢見ました。今回のオリンピックはどうでしょう。

スポーツは民族や国、言葉の違いを乗り越える。新たな社会を築いていく道標となるような大会にしてほしい。そういう五輪の素晴らしさを伝えられたらい。

強い想いを持ってオリンピックに関わっておられる方の声は重いものがあります。

ちなみに、今回の聖火リレーのコンセプトは「Hope Lights Our Way  希望の道を、つなごう。」です。

本来のオリンピズムに立ち返って

 現在は新型コロナの影響を受けているせいもあるのでしょうが、オリンピックが政治、経済の話中心になってしまっているように感じます。しかし、オリンピックの目的は別のところにありますし、参加者、関係者の思いはそのようなものではないでしょう。

 開催の是非が取り沙汰される中で、意見の違いによって私たちの心の分断が進んでしまっては本末転倒です。よく心をひとつにと言いますが、全てをひとつに統合するということではありません。みんなが他の人の心を思いやり、人種、性別、国、言語、宗教など、それぞれが異なっても認め合っていくことです。

 本来のオリンピック精神に立ち返り、開催の是非などが議論されて、開催、中止どちらに決定されたにしても、みんながこれで良かったと納得できる決着を期待したいものです。

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