「津久井やまゆり園」での悲しい事件
7月26日に起こった知的障害者施設での殺傷事件。
なぜこのような凶行が、と悲しみと憤りが止まりません。
誰もが「いのち」について改めて考えさせられたのではないでしょうか。
必要のないいのちはない?
紙上で、ある宗教者は「障害があろうが、なかろうが、必要のないいのちはない」と発言。
すべてのいのちが必要である、というのは一見、素晴らしい考えです。
しかし、少し違和感を感じます。
いのちは「必要である」から大事なのでしょうか?
仏教では、すべてのいのちが必要だから大切である、とは説きません。
それは愛しいものだから
お釈迦さまは次のように説きます。
「すべての者は暴力におびえる。すべてのものにとって生命は愛しい。己が身にひきくらべて、殺してはならぬ。殺さしめてはならぬ」(『ダンマパダ』)
ただ、だれもが愛しいもの、だから大切なのです。
すべてのいのちへ等しいまなざし
この事件を受けて障害者・家族団体が声明を出しました。
障害者の存在を否定する容疑者の供述が報道されていることに触れ
「私たちの子どもは、どのような障害があっても一人ひとりの命を大切に、懸命に生きています」
「家族は、その一つひとつの歩みを支え、見守っています。事件で無残にも奪われた一つひとつの命は、そうしたかけがえのない存在でした」
「事件を機に、障害のある人一人ひとりの命の重さに思いをはせてほしい」
「障害の有る無しで特別視されることなく、お互いに人格と個性を尊重しながら共生する社会づくりに向けて共に歩んでいただきますよう」などと訴えています。
いのちをはかることなく(寿を量ること無く)、ともに生きていきたいものです。
「帰命無量寿如来」(『正信偈』親鸞聖人)
コメントを残す