8月15日を迎えて
毎年のことですが、8月6日、9日、そして今日と戦争と平和について考えさせられます。
平和記念公園で小学生に原爆投下日を聞いたとのこと。
広島に投下された日を知っていたのは5割弱。長崎は3割弱だそうです。
あまりに多くの子どもが知らないこと驚きます。
戦争体験者の減少が
私が自坊に帰ってお参りを始めた18年前。
3地区の戦没者追悼式に参加していました。
宗派を問わず仏教寺院が集まり追悼法要を勤める地区もあり。
仏教式と神道式を併せて勤める地区もあり。
しかし、現在呼ばれるのは1地区のみ。
戦後70年以上を経て、体験者、関係者が多く亡くなられたこと。
市町村合併もあり、市の行事に一本化されるなど、行う地区が減ってきたようです。
「ありがとう」ではなく「すみません」
今年はオバマ大統領が広島を訪れました。
初めて現役大統領が訪れたこと、被爆者との抱擁が感動的だったと評価する意見もあり、
原爆投下の過ちを認めていない、核廃絶の道筋を示さなかった、との否定的意見もあるようです。
以前、広島での現地学習に参加しました。
そこで印象深かったのが、ある被爆体験者のお話。
「私たちは大々的な平和式典を行うのではなく、わが家の仏壇の前で「すみません」と手を合わせているのです」
それは、このことが一般的なことではなく、私自身のことであるからでしょう。
英霊に感謝する、という方がおられます。
しかし、私が出会った体験者は、感謝するのではなく、懺悔しているのです。
戦争を止められず戦地に送り出してごめん、私だけ生き残ってごめん、と。
安らかに眠ってください 過ちは繰り返しませぬから
時々話題に上がる、原爆死没者慰霊碑の文章。
以前、この言葉の主語は誰なのか、と論争がありました。
原爆を落としたアメリカ人なのか、それとも私たち日本人なのか。
この言葉は、人類すべての心として受け取るべきものです。
どちらが加害者、被害者なのか、という争いを超えなければ平和はありません。
「何人ということではなく、一人の人間として出会っていかなければならない」
との言葉も心に残りました。
ノーベルの作ったダイナマイトは炭坑作業を楽にするために作られ、のちに兵器に利用された。
核兵器は最初から兵器として作られた、人類として過ちである。とも聞かされました。
仏教の回向の心
浄土真宗でお勤めの最後に回向句があげられます。
「願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国」
この功徳を平等にすべての人々に施し、さとりへの心を発こして安楽な世(浄土)を願うのです。
国の平和と個人の平和を
平和とは国家間の争いが無くなれば得られるものではありません。
テロという国にとらわれない戦争もあります。
また、個々人の苦しみも平和を妨げます。
ですから仏教が説く、心身の平穏が平和に不可欠なのでしょう。
仏教の教えが平和に貢献できますよう「南無阿弥陀仏」。
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