『鬼滅の刃』を仏教的に考えてみた

 大ブームとなっている『鬼滅の刃』。アニメ映画「無限列車編」は興行収入は300億円に迫り、日本映画史上最高になりそうな勢いです。『鬼滅の刃』は少年誌に掲載されていた漫画。2019年にアニメ化されたことにより、その人気に拍車がかかりました。若年層にのみ注目されていたものが、世代、性別を問わず多くの人の心をつかんでいきました。わが家の7歳と5歳の娘も夢中になっています。ただ、凄惨なシーンも多いことから、映画はPG12(12歳未満は保護者の助言・指導が必要)に設定されており、小さな子どもに見せて良いかどうかも物議をかもしています。

 主人公の竈門炭治郎(かまどたんじろう)は、母と弟、妹の5人を鬼に殺され、ただ一人生き残った妹の禰豆子(ねずこ)は鬼になってしまいました。鬼の始祖・鬼舞辻無惨(きぶつじむざん)は人間を鬼に変えることができ、鬼は人間を喰らうことで強くなります。鬼を、無惨を倒すことを目的とするのが鬼殺隊です。炭次郎は禰豆子を人間に戻すために、鬼殺隊の一員となって、その方法を探りつつ鬼と戦い続けます。

大ブームの理由は? 

 この作品がなぜ大人世代も巻き込んでの大ブームとなったのか。多くの方がその理由、魅力について考察しています。

 青山学院大学准教授・森島豊氏は、

物語そのものに、現代人が抱える問題と、それに応えるメッセージがあるのではないか

大ヒット『鬼滅の刃』、若者に刺さりまくった「炭治郎の一言」をご存じか?

とおっしゃいます。その視点から読み解くと、『鬼滅の刃』の物語には、仏教に通じるものがあるのではないかと感じました。

 『鬼滅の刃』の登場人物の多くは、幼少の頃から不条理な体験をしています。鬼殺隊員も鬼になった者も、家族を殺されたり、劣悪な家庭環境に苦しんだりしています。

 森島氏は、

この物語が向き合っている世界がある。その世界を象徴しているのが「どうでもいい」という表現だ。…不条理が人々に自暴自棄的な思いをおこさせる。「誰も必要としていない」。「生きていて、ごめんなさい」。この思いをどうすればよいのか。『鬼滅の刃』の爆発的人気の裏には、「どうでもいい」を克服したい読者の期待に応えた側面がある。

と考察されています。

 さらにその奥には、物語の最初に鬼殺隊員の富岡義勇が語った言葉、

「弱者には何の権利も選択肢もない。ことごとく強者にねじ伏せられるのみ…それが現実だ」

に投影された、現在の弱肉強食の世界を逃れたいという願望があるように思います。

「どうでもいい」か「どうでもいいことなんてない」か

 仏教では、この世は生老病死、諸行無常と説きます。すべてのものごとは因と縁によっておこり、移り変わっていきますから、不条理に感じることがおこることもあります。

 今年は、新型コロナの感染拡大によって、これまでの生活から大きな変化を強いられ、不条理な世界を強く感じた方も多いことでしょう。そして、弱肉強食の世界では、どうしても弱者が多くの不条理に襲われざるを得ません。その時に、もう「どうでもいい」と思ってしまうこともあるでしょう。

 この「どうでもいい」という気持ちは、浄土真宗の開祖・親鸞聖人のおっしゃる「空しく過ぐる」に繋がるように思います。どうでもいい人生は空しいことでしょう。

 「どうでもいい」と思うとどうなっていくか。自らのことがどうでもいいなら、当然のように他人もどうでもよくなってしまいます。

 仏教の開祖・お釈迦さまは

すべての生きものにとって生命は愛しい。自分の身にひきあてて、殺してはならない。殺させてはならない。

『ダンマパダ』

とおっしゃいました。

 この論理は自らの生命が愛しいという前提で成り立っています。愛しいとは感じない、どうでもいいという人は、いのちは大切であるということが分かりません。

 炭治郎は「どうでもいい」と言う鬼殺隊の少女・カナヲに語りかけます。

この世にどうでもいいことなんて無いと思うよ。

「どうでもいい」と言う者も、心の奥底では、どうでもいいのは嫌だ、何か手応えを感じたいと願っているのではないでしょうか。不条理な出来事に耐え切れずに鬼になった者も、不条理を受ける弱者ではなく、強者である鬼になることで何かを得ようとしていたのでしょう。

 鬼はどのような存在か

 鬼は不条理なことへの怨みを、社会に、人間にぶつけてきます。鬼殺隊員にも大切な人を殺されて鬼を怨んでいる者もいます。しかし、それ以上に、悲しむ人をこれ以上増やしたくない、守りたいという思いを強く持っています。映画で大活躍した煉獄杏寿郎(れんごくきょうじゅろう)は、列車に乗る人間を一人も殺させないと奮闘し、命を燃やし尽くしました。

 炭次郎は、敵である鬼にすら優しさを向けます。不条理な出来事に耐え切れず鬼になってしまいましたが、鬼も元は人間。心の弱さから鬼の手先になる人間も登場します。炭治郎は、彼らも自分と変わらない、「どうでもいい」とは考えません。

親鸞聖人は、

どんなことでも自分の思い通りになるのなら、浄土に往生するために千人の人を殺せとわたしがいったときには、すぐに殺すことができるはずだ。けれども、思い通りに殺すことのできる縁がないから、一人も殺さないだけなのである。自分の心が善いから殺さないわけではない。また、殺すつもりがなくても、百人あるいは千人の人を殺すこともあるだろう

『歎異抄』

とおっしゃいました。

 縁があったならば誰もが人を殺してしまう。私たちも不条理な出来事が縁となって鬼のような存在になってしまう可能性があるのです。

本当の優しさ≒仏の本願に出会うと

 その鬼たちが、最後に炭治郎の優しさに触れます。すると、その昔、誰かから注がれていた愛情を、誰かに対して持っていた愛情を思い出し、救われていきます。自分は「どうでもいい」存在ではなく、かけがえのないいのちであったと気づき、他人もどうでもいいものではなく、大切ないのちであると思い至るのでしょう。

 森島氏は、

現代人が求めているのは、失敗してもいい、間違うこともある、それでも「見捨てない」「投げ出さない」という心との出会いかもしれない。

とおっしゃいます。

 鬼になった者は、鬼舞辻無惨に出会ってしまい、道を間違ってしまいました。そして、道を踏み外してしまった私をも見捨てない炭次郎の優しさに出会って、救われていきました。

 阿弥陀如来は

わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生まれたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生まれることができないようなら、私は決してさとりをひらきません。

『仏説無量寿経』

と誓われました。

 浄土真宗では「悪人正機」(あくにんしょうき)、悪人こそ救いの目当てと説きます。煩悩をもった私は自らの力では迷いの世界を離れられませんが、そのような私を、阿弥陀如来は見捨てることなく浄土へと摂め取ってくださいます。そして、その浄土とは「無量寿」「無量光」、かぎりないいのちと光の世界です。

 映画には、炭治郎の精神世界が描かれています。澄んだ明るい青空、暖かい光、自らを殺しに来たものさえも優しく包み込む世界。その表現から浄土を思い起こしたのは私だけでしょうか。 

炭治郎は菩薩!?

 阿弥陀如来にとって、私は「どうでもいい」どころか、どうしても救いたい大切ないのちです。その願いが私に向けられていると気づくと、安らぎます。その願いはかぎりないいのちと光となって私たちに届けられています。

 親鸞聖人は、

如来(仏)の本願に出会ったならば、人生を空しく過ごすことはありません。

『高僧和讃』

とおっしゃいました。

 その仏の願いを私の願いとして歩む者を菩薩と呼びます。

 鬼殺隊を率いる産屋敷耀哉(うぶやしきかがや・左)は語ります。

永遠というのは人の想いだ。人の想いこそが永遠であり不滅なんだよ。

 その願いは、千年脈々と流れて、炭治郎まで続いています。まるで如来の本願のように。炭治郎は愛しい人を守るために戦います。そして、鬼になった悲しいいのちの安穏を願います。その姿は菩薩のように見えてきます。

 『鬼滅の刃』は、私たちの世界を投影した、そして、心の奥底で求めているものを表現した「いのちの物語」なのかもしれません。

2 件のコメント

  • この観点から鬼滅の刃を捉えたのは面白いです。
    ただ炭次郎や禰豆子等が来ている衣装に描かれている紋様に込められた意味と、我妻の雷の呼吸と鱗文、胡蝶忍の矢絣と蝶の呼吸などが持つ意味などを作者がちゃんと理解してキャラクターに投影していると思います。

    蝶=輪廻転生《不死不滅》や復活、長寿などの象徴

    • 有難うございます。ご無沙汰です。
      『鬼滅の刃』の物語は宗教性が強いように感じます。最終巻では一層、著者の思いが色濃く出ていましたね。
      蝶が象徴する輪廻転生、そうかもしれませんね。
      「柱」などの表現は神道から取っているかもしれませんし、著者が様々な宗教観を織り交ぜているのでしょうね。
      今回のブログはセリフに注目して書きました。文様についてはまったく…
      ご教授有難うございます。

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