「おてらくご」開催!
お寺と落語、その「ら」を重ねて読んで「おてらくご」。
釈徹宗さんが「おてらくご」という本を出されました。拝借していいですか、と聞いたら「どうぞどうぞ」と。
なぜ「おてらくご」かと言うと、落語の起源はお坊さんのお説教だったと言われているからです。
安楽庵策伝さんの「醒睡笑」
桃山時代から江戸時代にかけて活躍した、安楽庵策伝(1554~1642)という浄土宗のお坊さん。
策伝さんが著した『醒睡笑』。おかしい話、味わい深い話をなんと全八巻。
お寺でのお説教は退屈、眠くなる。だから「睡眠を醒ます笑い」が必要ということで。
それが落語のテキストに、またお説教のタネ本になったそうです。
落語の中に仏教、お坊さんを扱ったものが多いのも自然の成り行き。
策伝さんは、おとしばなしの名人、落語の始祖と言われるようになりました。
また、江戸時代におそらく初の職業噺家となった京都の露の五郎兵衛も、もとは日蓮宗のお坊さんでした。
落語のスタイルもお説教から
一人の人間が扮装も背景もなしに正座して語り続けるという世界でも例のない話芸のスタイル。
それは、仏教のお説教がルーツとなって出来上がりました。
「高座」は、昔、お坊さんが上がって説教していた台のこと。
当山にも残っていますが、今は使われず物置の中。
「(客に)受ける」というのは「受け念仏」が語源だといいます。
他の伝統芸能、浄瑠璃、講談、浪花節なども仏教、お説教の影響が大きいと言われています。
日本文化は仏教に根差しているとも言われるほどです。
第1回の咄家さんは上方落語の林家染雀師。バンドでキーボードを弾いたり、音曲漫才をしたりと多芸な師匠。
演目「宗論」
もともとは浄土真宗と日蓮宗の信者のいさかいの話が、いつしか浄土真宗とキリスト教になりました。
キリスト教信者になった息子と熱心な浄土真宗門徒の父親とが仏教とキリスト教の教義を巡って口論することから物語が展開。
途中、私のいのちは神さまが作ったという息子、それに対して「私の息子と違うんかい、おっ母が神さんと浮気したんかい」とつっこむ父親。
仏教ではものごとは因縁によって成り立っていますから、神さまのようないのちをものを作り出す絶対神を認めないという、双方の教えのコントラストから笑いが生み出されます。
意見はかみ合わず、息子は牧師の口調を真似て聖書の一節を語り、讃美歌を歌い出したり、てんやわんや。
怒った父親が殴ると、権助さんが仲裁に入り「宗論はどちら負けても釈迦の恥」と嗜めます。
興奮していた父親も我に帰って「よう仲裁してくれた。宗論はどちら負けても釈迦の恥。権助、お前さぞかし信心深いな、お前も真宗(信州)か?」
「いいえ。私は香川の讃州じゃ。」
「宗論」を受けて住職のお話
一席終わった後は、住職よりお話。
「どちらが負けても釈迦の恥」。
お釈迦さまは八万四千の法、多くの人々にそれぞれに適した教えを説いたと言われます。
日本に伝わったたくさんのお経の中で、『無量寿経』などのお経を中心にするのが浄土真宗、『法華経』を中心とするのが日蓮宗、『大日経』などを中心とするのが真言宗です。
全部いわゆる仏教ですから、両方ともお釈迦さまが説いたものなので喧嘩して勝ち負けがついたとしたら、どちらが負けても釈迦の恥ということ。
昔の方は、仏教のことをよく知っていた。笑いにするくらい知っておられたのですね。
ご存知「寿限無」は阿弥陀さまのこと
生まれた子供にめでたい名前を付けようとして、お寺の和尚さんの所へ相談に行った父親。
和尚さんから色々と教えてもらっためでたい言葉を、全て並べて子供の名前にしてしまう。
「寿限無、寿限無、五劫の擦り切れ、海砂利水魚の水行末…」
「寿限無」とは、寿(いのち)に限(かぎり)が無(ない)ということでめでたい。
これは浄土真宗の御本尊、阿弥陀仏のお名前、無量寿。
阿弥陀というのは古代インドの言語で、日本語にすれば、かぎりないいのちとはかりしれない光という意味になります。
浄土真宗は、そのはたらきを身に受けていることに気付かされる教えです。
「五劫の擦り切れ」の劫とは、時間を表す単位。1辺4000里の岩を100年に1度布でなで、岩がすり減って完全になくなっても劫に満たないと言われます。
インドでの計算では約40億年になるそうです。それが5回擦り切れる、つまり永久に近いほど長い時間のこと。
お経には、阿弥陀仏が私たちを救うにはどうすればよいか考えるのに五劫かかったと言います。
それほど私たちは罪深い、さとりを開くことが、仏になることが難しいにも関わらず、南無阿弥陀仏によってお浄土へ、仏とならせていただくのが浄土真宗です。
「海砂利水魚」は、海の砂利や水中の魚のように数限りないことを表します。
浄土真宗のお経には「恒河沙数」とあります。川の砂粒ほどに数え切れないということを表します。
金子みすゞさんの詩「大漁」
「朝焼小焼だ大漁だ。大羽鰮の大漁だ。浜はまつりのようだけど、海のなかでは何万の鰮のとむらいするだろう」。
仏教は、水の中にも数限りないいのちがあり、それは私と同じ重さのいのちであると教えます。
また、「星とたんぽぽ」には「青いお空のそこふかく、海の小石のそのように、夜がくるまでしずんでる、昼のお星はめにみえぬ。見えぬけれどもあるんだよ、見えぬものでもあるんだよ」。
浄土真宗は、恒河沙数の仏さまがいらっしゃると説きます。
その数限りない仏さまがお念仏する私を見守ってくだっている、そして私も人生を終えたらその仏さまの一人となって、のちの者を見守らせていただくと伝えます。
当時の人々は、このように落語の中に残るほどに、仏教を、浄土真宗の教えを聞いて生活していたのだと感嘆させられます。
上方落語の名作「はてなの茶碗」に後ろ面も
二束三文の水漏れする茶碗が、あれよあれよと1000両の茶碗になるお話。
最後は師匠より踊り芸のサービス。
後頭部に面をつけて、後ろを前に見たてた踊りでこれまた大爆笑。
大笑いしながら、お寺、仏教に触れていただく機会となりましたなら幸いです。
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