今年も「おてらくご」開催!
昨年好評を博した「おてらくご」。
大いに笑わせてくださった林家染雀師匠は昨年「繁昌亭大賞」「文化庁芸術祭賞」を受賞されたそうです。
落語は仏教のお説教が起源ということもあり、お寺で落語を楽しみ、仏教に触れようというこの企画。
今年は笑福亭松枝師匠、まずはお寺を舞台にした「餅屋問答」。
演目は「餅屋問答」
東京では「蒟蒻問答」と言います。
お寺に住職が不在。誰でもいいから、ろくでなしに住職をやれと言ったのが、餅屋のオヤジ。
お経が分からなくても「イロハに節つけるんや。イ~ロ~~ハ~二~~~ってな具合にやれば、十分お経に聞こえる」なんて言って。
ある時、その寺に修行中の雲水が訪ねてきます。さてどうしたものか、餅屋が和尚となって応対します。
黙っているだけなのに、雲水は無言の行をしていると思って、ジェスチャーで問答を挑んできます。
胸の前で小さな輪を作ります。すると餅屋は両手で大きな輪をこしらえます。
雲水が十本の指を差出すと餅屋は負けずに五本の指を出します。さらに、雲水が指を三本突き出すと、餅屋はアカンベーをします。
これを見た雲水は寺を飛び出します。
追って雲水に訳を聞くと、「心中(小さな輪)は、と問えば、大海のごとし(大きな輪)。
十方世界(指十本)は、と問えば、五戒(指五本)にて保つ。
最後に三本の指を出したのは三尊の阿弥陀(三本指)は、と聞くつもりだったのですが、和尚(餅屋)は「目の下にあり」(アッカンベー)とお答えになった、参りました、と。
一方、餅屋はかんかんに怒っていました。
「おまえんとこの餅は小さいぞ(小さい輪)、と言うから、大きいぞ(大きい輪)と答えた。
十個(十本指)でなんぼや、と聞いてくるから五百文(五本指)やと答えたら、三百文(三本指)にと値切ってきた」。
「おちょくるんやないとアッカンベーした」、というお話。
同じジェスチャーでも、相手を高僧と信じ切っていると禅問答のようなジェスチャーに見えてくる。
餅屋としてそのジェスチャーを観たら、けなされているように見えてくる。面白いですね。
「餅屋問答」を受けての住職のお話
人はなぜ騙されるのか、それは「思い込み」と「欲得ずく」のためだと言います。
安斎育郎先生に教えていただいたことです。
「人をその気にさせる方法には、二つの方法がある。一つは、身に迫り来る恐怖を突きつけ「このままでは大変なことになる」と思わせた上で、それを回避する手立てを提示することである。
二つ目は、非常に魅力的な宝物(金でも異性でも健康でも幸福でも生きがいでも、何でもいい)を吹聴し、それを手にし得る手立てを提示することである。
世の中、「思い込み」と「欲得ずく」の生き方ほど危ないものはない。
ある詐欺師は「人びとに欲望がある限り、私らは困りません」と語ったそうです。
思い込みの危うさ
「餅屋問答」で言えば、雲水は、お寺に居て、衣を身につけているから住職だと思い込んだわけです。だから騙された。
その住職のジェスチャーだからさぞかし深い意味があるのだろうと。
怪しげな勧誘、例えば宗教を見分ける、これは案外簡単だそうです。
こうしなければ悪いことがありますよと脅して入信させる。
それ以外の関係を断絶させようとする(客観的な見方、正常な思考力を奪おうとする)。
また、法外な金品を要求してくる。それは怪しいと考えた方が良いと思います。
さて、仏教はものの見方を教えてくれる、思い込みを破ってくれるものだと言います。
事実は一つでも意味は何通りもある
餅屋問答で言えば、傍から見ればジェスチャーは一つ。事実は一つ。
でも見方によって異なった意味、二人にとってはそれぞれの意味を持ったわけです。事実は一つであっても、見方によって意味は変わってきます。
私たちにとって不都合な事実。生老病死、生まれ、年老いて、病にかかり、人生を終えていかなければならない。
この事実はいつどこに生まれようとも変わりません。しかし、その意味は人それぞれ変わってきます。
例えば病気になった。癌になって余命1年、それを悔み続けて亡くなる人もいる。
それを受け入れて静かに亡くなる人もいる。良かったと言って亡くなる人もいる。
悔み続けた人はまだ人生何年もあるはずだったのにという思いに沈み、また、死期が定まってしまったことが苦しいと感じる。
良かったという人は、死期が定まったからそれまでにやるべきことができると考える。家族のために考える時間があって良かったと言います。
人生あと1年と思うか、一日一日命をいただいて生きている、それが1年積み重なると思うか。
死んだら終わりか、いのちを終えて浄土に往生して仏となるか、で違ってきます。
生きてるだけで丸儲け
あるお医者さんが不治の病の方にこうおっしゃったそうです。
「あなたの寿命を長くすることはできません。その間に良く生きられるようにします。くよくよせず愉快に行きましょう」。
真宗門徒は、どうにもならないことは、いのちの行き先は阿弥陀さまにまかせる。
そして良く生きる、精一杯生きるということを考えてきたのではないでしょうか。
明石家さんまさんが「生きてるだけで丸儲け」とおっしゃってましたね。
これはある意味さとりの言葉かも知れません。
丸儲けだから何をしても良いのではなくて、丸儲けだから感謝しかない。
植木等さんが「わかっちゃいるけどやめられない」と歌っていましたね。
植木さんのお父さんは浄土真宗のお坊さん。植木さんがこの歌を歌う前に悩んでいたら、これこそ親鸞聖人の教えだとおっしゃったそうです。
人間、煩悩があるから「わかっちゃいるけどやめられない」。
しかし「生きてるだけで丸儲け」、毎日いのちをいただいて生きている。
阿弥陀、はかりしれないいのちの働きをいただいて生きている、浄土へ生まれ仏とならせていただく。
おかげさまと感謝して日々を過ごす。それが南無阿弥陀仏と言っても良いのではないでしょうか。
最期は「相撲場風景」でもう一笑い
大入り満員の相撲小屋。尿意を感じている客。
便所に立つと席を取られるので、動こうにも動けない。
そこで、近くで寝ている男の一升瓶の中に排尿してしまう。
起きた男は一升瓶の酒を飲もうとして目や鼻に染みると騒ぎ立てる‥
落語を楽しめるだけで丸儲け、師匠の名人芸を楽しみつつ、お寺、仏教に触れていただくご縁となりましたら幸いです。
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